「本が読まれなくなった」とよくいわれる。何を根拠にそういっているのかといえば、ただ単に書籍の販売点数や販売総額が下がったというだけで、日本人が「本を読まなくなった」という事実は、どこにもない。
近くの図書館にいけば、たくさん人が来ているし、予約図書の貸し出しも盛んだ。貸し出し上位ベスト50みたいなこともやっているから、「本が読まれなくなった」などという論理は空理空論にすぎないということが、すぐにわかる。
ここ十年、何度も何度も「本が売れない」という議論や論評が繰り返されてきた。それでいて「なぜ本が売れなくなったのか」という原因の探求は、ほとんど行なわれていない。腹立たしいことに「読者がバカになったから」などという言い訳や泣き言をならべ、読者側に責任を転嫁し続けてきたから、ますます本が売れなくなった。
たとえば、「車が売れない」となれば、それは自動車メーカーや自動車販売店のやり方に問題があるわけで、けっして「ドライバーがバカになったから」とは考えない。車に重大な欠陥や構造上の問題が見つかれば、すぐに自動車メーカーの販売台数に跳ね返る。当然、「車が売れない」のは「ドライバーがバカになったから」などという、甘えた論理は通用しない。
お茶やミネラルウォーターなどといった清涼飲料水だって「ドリンクが売れない」となれば、それは自分たちが販売しているモノに問題があると考える。ところが、出版人はそうは考えない。自分たちが販売しているモノに重大な欠陥や構造上の問題があるにもかかわらず、売れないのは「読者がバカになったから」などと考え、自らの境遇を哀れんでいる。
ライトはつかない、ブレーキランプもつかない、そんな新車を喜んで買う日本人がいるものか。新車なら不良部品を取り替えればいい、ところが新刊の翻訳書はそうはいかない。車ならリコール騒ぎになるような翻訳書ばかりつくっておいて、本が売れないなどと騒いでいるほうがおかしいのである。
しかもだ。古典の新訳が出るのに30年も50年もかけている。車なら30年間、一度もモデルチェンジしないということになるが、そんなことをやっている自動車メーカーは日本にない。車なら4年でフルモデルチェンジのところを、権威づけなどして古典を時代遅れの「ポンコツ」にしているから、売れるものも売れなくなる。
「読者はバカだ」と考えているから、読者の声や読者の要求が聞こえない。読者カード一枚、翻訳書のつくり一つをとっても、上から下を見下げるような翻訳書ばかりだ。いまどき、ネットをつかえば、いくらでも読者の声や読者の要求は拾える。愛読者フリーダイヤルでも、読者専用サイトでも何でもやれるはずだが、新しいことをやるだけの勇気がない。
「本が売れなくなった」のは、「読者がバカになった」からではない。「読解力の低下」も「学力の低下」も関係ない。無感動に翻訳書をつくり、数売って、印刷機を回し、クズのような翻訳書を大量生産しているから、大事な顧客を失ったのだ。
「本が売れなくなった」のは、出版人が読者の声を無視し、自分たちだけの考え、自分たちだけの価値観、自分たちだけの本をつくってきたからだ。読者の期待を超えようとか、脳天に突きささるような翻訳書を出してやろうなどという強い熱意や使命感などない。
「本が売れなくなった」のは、出版社はじめ、出版人の責任である。読者の声、読者の要求を素直に聞き、新しい考え方、新しい発想を取り入れ、新しいタイプの翻訳書を開発してこなかった出版人の怠慢の結果である。
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