権威づけのための翻訳をやめればいい。ニセ学者と共同で「みせかけの権威」を活用するのはやめるべきである。ついでに、インチキ翻訳者を使うのもやめれば、もっといい。「みせかけの権威」や「インチキ翻訳」をありがたく拝んでいる人間は、もういない。
かつて、政治と宗教が一体化して政治を権威づけしたように、日本では学問と翻訳が一体化して学問を権威づけしてきた。政治と宗教が分離したように、学問と翻訳も分離すべき時がきている。「インチキ翻訳」でつくりあげる「みせかけの権威」は、すでに機能していない。
ニセ学者たちの「みせかけの権威」を演出する奇劇は終演だ。本物の学問を志す者にも迷惑だ。ホンダ、ソニー、トヨタは「ユーザーのための製品開発」をやって世界の一流企業に成長した。翻訳も「読者のための翻訳」を目指し、いつまでも「みせかけの権威」に従属していることはない。
失われた10年か、はたまた20年か知らないが「読者のための翻訳」を目指していれば、日本の現状は違った姿になっていた。三流翻訳書が書店の店先に山積みされていることも、ニセ学者とインチキ翻訳者が対談することもなかった。何より三流翻訳書が与えた政治、経済、文化への影響が大きすぎる。
はったり、ごまかし、テクニックに溺れた人間や組織を生み出した源泉は、このニセ学者とインチキ翻訳者の仕業である。ニセ翻訳は奇形の日本語を生み出し、その奇形日本語は日本人の考え方、生き方、価値観に多大な影響を与えた。日本語がおかしくなったのも、日本社会が迷走しているのも、この奇形日本語に起因している。
「読解力の低下」などといって騒いでいる場合ではない。問題は、ニセ学者とインチキ翻訳者の奇形日本語だ。奇形日本語は、たしかに見た目は日本語だ。ところが、日本語では理解できない。わざわざ日本語では解読できない「型」をつくりあげることで「権威づけ」してある。
理解させない、わからせない、そうやって「みせかけの権威」をつくりあげてきた。せこい「権威づけ」のために翻訳を悪用し、自らの権威のため、権力のため、支配者のために翻訳を従属させてきた。それが、ニセ学者とインチキ翻訳者たちである。
ニセ学者とインチキ翻訳者の「みせかけの権威」のために、多くの若者たちが犠牲になってきた。本物の学問を志す者、翻訳に情熱と使命を持った翻訳家たちが犠牲になってきた。
「読解力」が問題なのは高校生じゃない。「読解力の低下」などといって、ニセ学者とインチキ翻訳者に加担している愚か者の「読み解く力」が問題なのである。日本の将来を担う若者たちを攻撃して何になる。そんなことをするより、ニセ学者とインチキ翻訳者の「みせかけの権威」を攻撃しなければならない。
ニセ学者とインチキ翻訳者の「みせかけの権威」は、すでに機能不全を起こし危篤状態にある。このまま、安らかに成仏してもらえば、それでいい。「読解力の低下」などといって騒ぎ立て「みせかけの権威」を延命しようとしても無駄だ。
「みせかけの権威」は形式となり、文化に吸収される運命にある。翻訳は一流の翻訳家に、学問を志す者は一流の翻訳から学び、自らの学問を創造しなければならないのである。そこから、新しい日本が生まれてくる。
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