「成熟した社会」という言葉を聞いたり、読んだりすると、何ともいえない抵抗感をおぼえる。だいたい、この「成熟した」という言葉を繰り出している人間は若者ではない。若者でないなら、いったい何者か。若者でないなら、ただの老人なのか。「成熟した」なんていっているくらいだ、本人は「成熟した人間」だと思っているに違いない。
しかし、「成熟した社会」なんてものが本当にあるのか。何を基準に「成熟した」とか、「成熟していない」と判断できるのか。果実のように赤く色がついたり、黄色くなれば「熟した」というのなら話は簡単だが。
「成熟した社会」とやれば、たしかに聞こえはいい。だが、現実は「新陳代謝のできなくなった老人社会」ではないか。「成熟した社会」という言葉の上っ皮を引っぱがしてみれば、何が出てくる。
どこをみたって問題だらけ、難題だらけのこの現実世界を直視せず、「成熟した社会」などといっている人間の無責任さ、責任放棄の姿勢はいったい何だ。そもそも社会に「成熟」などというものがあっていいはずがないではないか。それを「成熟した社会」などとクソ真面目に語り合う雰囲気はどこからくる。
新旧の激しい対立、残酷なまでの新旧の交代を通じて、社会のあり方は激変してきた。新しいものが古いものを打ち破り、新しかったものもまた新たに生まれてくものに打ち破られる、この営々の繰り返しが社会のあり方を根底からくつがえし、文明をつくりあげてきた「力」だ。
過去の基準やモノサシを使って現在をみようとするから「成熟した」などといいたくなるのだ。30年前、50年前に権威づけされた「過去の遺物」を持ち出してきて「成熟した」などといって何の意味がある。
社会のあり方は、日々変化し続けている。「今」を生きている人々によって、社会の姿はいくらでも変わっていくし、変わっていかなければならない。でなけば、いつまでも「華族」がいたり、「領主様」がいたりすることになるではないか。
「成熟した社会」という言葉には、何かできあがったような、改善改良の余地のないイメージを醸し出すにはいい。ところがこの言葉は、権威の固定化、権力の固定化につながる言葉でもある。
新旧が馴れ合い、口裏を合わせて白々しい芝居を打つ。そんな談合事件が頻発しているが、それこそ「熟して腐った社会」ではないか。理想の社会像として「成熟した社会」を思い描くの勝手だが、この現実社会を「成熟した」などといって現状に甘え、現状を変えようとしない、いや変えたくないという願望は次の世代を腐らせる。
改善改良すべきところはいくらでもある。思いがけない発見、個人のささやかな発明によってでさえ社会の姿は大きく変わる。そして、「社会」という言葉でさえ捉えきれない「何か」になる。そのとき、「社会」という言葉それ自体も「何か」に打ち破られる。
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