言葉の「目にみえない力」はどこからくるのか。言葉それ自体が「生き物のように動く」という見方もあるが、そうじゃない見方もある。言葉の機能だとか、意味だとか、言語学的なんだとか、そういった「アカ」を洗い流してみると、ここに存在しているものは記号だ。
「記号だ」なんていうと、また「記号論」だとか何だとかといってくる「アカまみれの人間」もいるが、言葉に「目にみえない力」を与えるのは、その言葉を受け取る側の人間の心の中にある「何か」であって言葉それ自体ではない。言葉を受け取る側の人間の心の中にある「何か」を言葉が刺激し、その「何か」が言葉に「目にみえない力」を与える。
言葉が人間の心の中にある「何か」をひっかけ、「何か」から「目にみえない力」を引き出す。たしかに、言葉それ自体が「力」を持っているかのように見えてしまうのだけれど、その「力」はもともと言葉を受け取った側の人間の中にある「何か」なのだ。
たとえば、言葉を受け取る側の人間が自分でも意識していない恐怖や不安、願望や希望などといったものが言葉に「目にみえない力」を与える。恐怖や不安が強ければ強いほど、願望や希望が大きければ大きいほど、言葉の「目にみえない力」は強力かつ、破壊的なパワーをもつ。
脅しの言葉、誘惑の言葉、怒りの言葉、励ましの言葉、歓喜の言葉、それらすべてが、言葉を受け取る側の人間の心にかかっていて、まったく同じ言葉でも、その受け取り方は無限の広がり、無限の受け取り方が存在している。
なにも言葉にかぎった話じゃなくて、この世の中のすべてがそうなっている。石ころでも、野の花でも、芸術作品でも、翻訳作品でも何でも無限の見方、無限の受け取り方、無限の読み方がある。ところが、ある一つの見方や受け取り方、考え方や読み方を押しつけてくる傲慢な人間がいつの時代にもいる。
ひとり一人の見方や受け取り方、考え方や読み方を押しのけ、ある一つの見方や受け取り方、考え方や読み方が「唯一」だの、「正統」だの、「正しい」だの、「普遍的」だの、「権威がある」などといっている人間がだ。
言葉に否定的な響きを与えるのも、明るい調子を与えるのも、刺さるような鋭さを与えるのも、突き飛ばすような勢いを与えるのも、「何か」を伝えようとする側の人間の心だ。
言葉を使って「何か」を伝えようとする側の人間は、自らの心の中に素手をつっこんで、言葉にならない「何か」を言葉にしなければならない。「アカ」にまみれたテクニックを駆使してみたところで、その「何か」は引き出せない。そう、心の中から「何か」を引き出すには、言葉それ自体に挑まなければならないのだ。
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