気に入った翻訳家の「新作」を手にとってみた。原著者も原書もわるくない、翻訳だっていい。けれど、読む気がなくなった。ピッカピッカの新刊本を手にとって、最初の数十ページを読むまではそうじゃなかったのに。
日本語がヘンだとか、ひねり過ぎでこねり過ぎた表現にひっかかることもなかった。じゃあ、なぜか。結論から先にいえば、新しい発見がなかったからだ。新しい発見は、「新しい切り口」といってもいいし、「新しい見方、考え方」といってもいい。
どれも似たような内容でトゲがない。テーマの組み方、読ませ方はそれぞれ異なってはいるものの、時代の主流に真っ向から対決するのでもなく、喧嘩をしかけるのでもない。
翻訳家に問題があるというより、商品を企画した出版社、出版編集者に問題がある。ウケそうなモノ、売れそうなモノ、ハズレなさそうなモノを選んで商品化しているから、どれも似たり寄ったりになる。
どこかで読んだことがある。しかもページを開くごとに「これも、あれも」とやっているうちに、あの翻訳家のあの作品だと特定できる。そのとき、読者はどうするか。たちまち読む気がモリモリわいてきて「レジに直行する」なんていう読者がいるだろうか。
そういう読者がいないとは言い切れない、がめったにいない。ふつうの読者なら捨てる。そう、捨てる。買わないで、別にいいヤツがないかを探す。ところがどっこい、近くに積み上がっているモノはどれも似たり寄ったりの金太郎モノだ。
週末の時間と電車賃を出し、都会の大型書店にいってもその投資に見合うだけの商品がないとすればどうなるか。別に難しくはない、子供だってやってる。そう、「何か」に切り替える。
ほんとに出来のいい翻訳作品なら、原書そのものが持っている「価値」は読者の目の前に開かれている。ただ、読めばいい。あれや、これやと「解読する」必要もないし、「解釈する」なんて必要もない。
読者ひとり一人にとっての「価値」は当然違っているし、定量化して目にみえるものでもない。ある読者にとっては大した「価値」がなくても、ある読者には全く違った「価値」が存在する。
出来のいい作品なら、読者が体験した最高の読書体験と比較されるし、最高の感動体験とも比較される。翻訳された本だとか、外国人が書いた本だとかいうせせこましい枠はとっぱらわれ、読者の感動体験に直接つながる。
大学教授などという肩書きを刷り込んで「価値づけ」しようとする出版人がまだいる。わるいが教授様の出てくる幕じゃない。教授様の出る幕はもう終わっている。読者にとっての「価値」は、「教授」という肩書きじゃない。そんなもの何の役にも立たないことくらいもうバレている。
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