出版社の人間が「読者がつく」などといっている記事があった。出版人の間ではあたりまえの表現なのかもしれないが、その読者が「読者がつく」などといわれてどう感じるのか、この人間には想像できなかったらしい。
磁石に砂鉄をぶっかけると砂鉄が磁石のまわりにつく、磁力がなくなれば砂鉄は石からバッサリ落ちる。なるほど、翻訳書にも「磁力」らしきものがあったではないか。磁石のように、目には見えないけれど人間を強力にひきつけたパワーが。では、その目にみえないパワーはどこにいったのか。まさか、「磁力」がなくなったなんていうのか。
古典新訳の動きを追跡していて目につくのが、出版編集者たちのごまかし、責任逃れの言い訳だ。「賞味期限」だの、「訳が古い」だのいって、問題の本質を巧妙にぼかしている。「賞味期限切れ」のクズを何十年も売ってきたのはどこの誰か、「訳が古い」とわかっていながら「みせかけの権威」にすがってクズを売ってきたのはどこの誰か。
クズ山ができあがっている書店で、古典が読めない読者たちになんて説明するつもりなのか。いや、若いときにその「賞味期限切れ」のクズを読んでも、二度と戻らない青春の時間を奪われた読者たちに何て説明するつもりなのか。出版人たちは、何も答えていない。
もし、本気で古典を復活させるつもりなら、こう宣言しなければならない。「いままでの古典翻訳書はクズ」だと。おそらく、読者から猛烈な批判なり、攻撃がくるだろう。おそらく、出版社のいくつかはつぶれる。はたして、その覚悟があるのか。
創業何十年だとかいって祝杯をあげている出版社が「クズ宣言」をしなくても、ネット関連企業が貪欲な成長力をつかって攻撃をしかけてくるだろう。「いままでの古典翻訳書はクズ」だと。そのとき、何て反論する。
読者が「つく」、「つかない」。いったい読者って何だ。この「読者がつく」という言葉をみていると、呆れる。怒るだけのエネルギーすら無駄に思えてくる。出版人には顧客という概念がないらしい。読者は金を払って出版社の商品を買っているお客だ。読者ではなく、お客だ。
わるいが、日本ではお客が「神様」だ。日本で商売をする以上、読者は「神様」なのである。翻訳書が「神様」なのではない、まして翻訳家が「神様」なのでもない。ところが、どうだ。「読者が神様」、こう公言している出版人がどこにいる。
面白い事実を確認しておこう。翻訳書に「大学教授」の肩書きを刷り込んで売っているものがある。これは「何を」売っているのかわかるだろうか、売っているのは翻訳書でも翻訳家でもない、「大学教授」という権威だ。翻訳家づらした、権威者、権力者が自らの権威を目にみえる形に商品化したもの、それがいまだに日本で売られているのである。
|