訳者不明の翻訳文が、新聞に掲載されている。翻訳文の文体と翻訳分野をよく考えてみれば、だれが翻訳したのか分からないわけでもない。文体の特徴を観れば、だれが翻訳したのか分かることもある。「あの翻訳家か、あの翻訳家しかいないではないか」と。
新聞社に、「だれが翻訳したのか」と電話で聞いてみた。電話をかけるタイミングがいつも悪いようで、「今日は終わったので」とか、「担当者がいないので」とかなんとかいってくる。「訳者はだれだ」などと電話で問い合わせてくる読者は、想定外らしい。
活字メディアを代表する大手新聞社が、訳者不明の翻訳文を新聞紙面に掲載し続けていいのだろうか。いいわけがない。日本の大手新聞社だ、名の知れた翻訳家を登用しているはずで、それは翻訳文を読めばわかる。しかし、いったい「だれが」翻訳しているのかが分からない。
新聞社内部の制度がどうなっているのか知らないが、新聞記事には記者名が明記されている記事とそうでない記事がある。記者のなかの格付けか何かは知らないが、記者名をいれる記事があって、なぜ訳者名がないのか。いままでそうやってきたからといって、これからもそうやっていいとは限らない。
新聞の翻訳文は、日本人の新聞記者が書いた記事文と混ざって掲載されている。読者は、日本語で翻訳文を読むことができるし、理解することもできる。専門用語があっても、それは専門用語だとわかる。
翻訳家がつくりだす翻訳文は、新聞記者が書く記事文とは素性が違う。だからといって翻訳文が「上」で記事文が「下」だなんてことではないし、記事文が分かりやすくて翻訳文が分かりにくいということでもない。
あたりまえのことだが、翻訳文の原文は日本語ではない。外国語で書かれた原文は、異文化の中でしか機能しえないような思考体系が幾重にも組み合わさってできている。つまり、見た目は日本語でも翻訳文と記事文とでは中身が違うのだ。
とはいえ、新聞社の苦しい立場も理解せねばなるまい。読者が求める記事を迅速かつ正確に伝えるため、「みせかけの権威」に配慮しつつも、その影響力を排除しなければならなかったのだから。
権威づけのための翻訳で「教科書」はつくれても、何百万人が毎日読む「商品としての翻訳文」にはならない。読者の求めに応じて質の高い翻訳文を追求してきた新聞社は、紙面から訳者名を外すことで読者ニーズに応えてきた。
「みせかけの権威」が崩れ去った今、権威づけされた翻訳文を拝んでいるような読者はいない。権威によって歪められた新聞紙上の舞台装置を、いつまでも歪んだままにしておく必要もないのである。
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