アカデミズムという世界には「売って読ませる」という販売手法がある。権威づけされた教科書を売りつけるための販売法、それがこの「売って読ませる」である。いま、この「売って読ませる」という考え方で生産された本が売れない。相手にもされない。
この「売って読ませる」という考え方は、売ることと読ませるということが一体になっている。読者が、どう読むかは考慮されいてない。だた、売って持たせておけばいいのである。こういうやり方は、いまだにアカデミズムという世界では通用するらしい。それも、教科書という名称をかぶせた翻訳書に。
この「売って読ませる」というやり方を忘れられないのか、別のやり方が思いつかないのか、やめたくてもやめられない人間がいる。みせかけの権威に追従し、いつまでも「売って読ませる」という前提でボロイことを考えているから、いつまでたっても読者の心をつかめない。
翻訳書を手にとり、実際に読んでみて「定価」で買うかどうかは読者が決める。「定価」で本を買ってもらいたいなら、それに見合うだけの価値がなければならない。いまどき、立ち読み程度で本を買う人は少ない。立ち読みは「捨てるべきか読むべきか」を判断しているにすぎない。
すべてのページを通読し、一部を熟読してみて、手元に置いておくだけの価値があると思った本しか読者は買わない。それが、いま起こっている現実である。読者の選別の目は鋭く、容赦ない。その読者が要求しているのは最高を超えた新しい価値だ。けっして最低のなかのクズではない。
いくつかの出版社は、読者の要求に反応しはじめている。とはいえ、読者には「読者の本棚」があることには、まだ気づいていない。「読者の本棚」をじっくり観察すれば、その本棚のスペースは無限ではないこともわかる。もっとよく観察すれば「何が」大切に並べられているのかもわかる。
みせかけの権威を突き抜ければ、さまざまな可能性が目の前にひらける。なにも、既刊の新訳復刊だけではない。古典をさまざまな翻訳スタイルで翻訳出版することも可能になる。一流の翻訳作品なら、競合せず共存することができるし、共存するからこそ質的競争になる。
ウソだと思うなら、クラシック音楽のCD売場に行ってみればいい。小澤征爾のホルストがあり、カラヤンのホルストがあり、バーンスタインのホルストがあり、マゼールのホルストがあり、無名新人のホルストがある。
小澤征爾のホルストも、カラヤンのホルストも、バーンスタインのホルストも、マゼールのホルストも、無名新人のホルストも競合せず、共存しているのはなぜか。それは、「好みの違い」という次元にまで市場が高められているからである。この市場では、カラヤンが一番上で、小澤征爾がその下などという不毛な議論はおこらない。
ホルストが聴きたいなら、優秀な無名指揮者のホルストもある。うれしいことに、千円で買える。分厚い解説書などいらないし、どこの管弦楽団だろうが、どこのコンサートホールだろうが、何年の録音かなんて気にしなければ千円のCDでも充分に楽しめる。
翻訳出版で質的競争が本格化すれば、真っ先に消えるのはニセ学者だ。インチキ翻訳者もインチキ翻訳がバレて退場である。残るのは、質的競争に挑み続ける翻訳家だけになる。そうなれば、読者の「好み」によって翻訳書が選別され、質的競争環境が、新たな翻訳家を育てる土壌になる。
|