ニセモノを「ホンモノ」であるかのように宣伝し、儲けようとする商人は昔からいた。あの手、この手を使って、何も知らない素人を誘惑し、ニセモノを「ホンモノ」であるかのように思い込ませる。
マネごとを「ホンモノ」であるかのように宣伝し、儲けようとする商人も昔からいる。あの手、この手を使って、何も知らない素人を誘いこみ、マネごとを「ホンモノ」であるかのように思い込ませる。
マネごとはマネごとだと自覚し、楽しむのは勝手だ。みてくれや、カッコのよさに目が眩んで「幻想の世界」に浸っているのも勝手だ。相手はハッタリ、ごまかしのプロだ。何も知らない素人をカモにして食っている。だから、その手口を見抜けないのも無理はない。
通訳、翻訳という営みを「語学」だと勘違いしている企業、個人は多い。勘違いしているだけならいいが、企業も個人も「語学の仕事」などといって軽くみてかかる。「語学の仕事」などと思い込んでいるから、とんでもない誤解、錯覚、失敗、問題が起こる。
異文化、異文明の一番外側にある巨大な防御壁が「語」であって、巨大な防御壁そのものが異文化、異文明の正体ではない。異文化、異文明の中に入るには「語」を学び、どこに扉があって、どうやって扉を開けるのかを理解しなければならない。
英「語」だろうが、中国「語」だろうが、ギリシャ「語」だろうが、ヘブライ「語」だろうが、何だろうが「語学」にできるのは異文化、異文明の中に入るための扉をみつけ、その扉を開けることしかできない。
通訳、翻訳という営みは、どんなに小さなことであっても日本文明の存亡に関わってくる。日本文明は「会社」と置き換えてもいい。日本文明という化け物が、その生存をかけて方向を変えたり、軌道修正したり、生き残るための「環境適応術」が通訳であり翻訳である。
しかも、翻訳と日本文明の権威は密接に結びついている。日本文明の権威は、古代から現代まで、絶えることなく翻訳によってつくられている。千年ちかい日本の歴史のなかで、翻訳は長いこと権威のため、権力者のため、支配者のために奉仕してきた。
翻訳が翻訳文化として受け継がれているのも、「つくられた権威」が絶えず必要になるからだ。「つくられた権威」は、時とともに権威ではなくなり、「形式」となって文化に吸収される。日本文明は「つくられた権威」を再生産することで、どんな新環境にも適応してきた。
日本人の頭の中を支配している日本文明の正体をじっくりと見つめてみれば、「アメリカ化」など問題じゃない。「ハード・パワー」で攻められても、「ソフト・パワー」で攻められても、日本文明の本体は「アメリカ化」しない。みてくれが「アメリカ化」しても、中身は変わらない。
日本文明の胃袋は底なしだ。頭を冷やしてよく見てみれば、日本文明がアメリカ文明を食っているのであって、アメリカ文明が日本文明を食っているんじゃない。中国が超大国になれば、日本文明は中国を食いはじめる。日本文明は、おとなしくて、カワイイ生き物じゃない。千年もの間、生き続ける化け物だ。
日本文明が生きつづけているかぎり通訳、翻訳という営みは消滅しない。たとえ通訳ロボットや機械翻訳に置き換わってもなくならない。千年の時をかけて日本文明がつくりあげた「環境適応術」が、通訳であり翻訳である。新環境に応じて日本文明をつくりかえる創造術が、通訳であり翻訳だ。日本文明の本質がここにある。
|