通訳・翻訳家は、音楽家のように儲からない、といわれる。音楽で食べていける人は一握りだとしても、その他は無意味なただの落伍者だろうか。人生の折に触れて楽器を習い、友人しか来なくても演奏会を開く。老いて体が衰えた時、長く親しんだ楽器や歌で、ひとときの感動を生み、心を慰めることができる。そんな世界を持つ人は、持たない人に比べ、どれだけの財産が心にあふれていることだろうか。
収入が限りなくゼロに近い通訳・翻訳者にも、貴重な財産がある。通訳・翻訳の舞台で一度でも、あがき苦しんだことがある人は、一方通行ではコミュニケーションにならないことを、当たり前のように知っている。言葉など完璧ではありえないこと、そんな中で少しでも心が通い合う時の喜びも知っている。言葉が通じないはずの話し手と聞き手、読者と著者を結び、新たな感動を生み出すことへの挑戦と、心のときめきも知っている。
世の中にはまだまだ、言葉の使い方の分からない人がいる。自分が誤解される言い方しかできないのに、通じないことを相手のせいにする人。他人の何気ない言葉に、必要以上に自分の解釈を加えて傷つく人。言葉のキャッチボールができず、デッドボールをぶつけ合う人々は、自ら孤独を呼び寄せる。悲しみの末に、沈黙の闇へと追い込まれていく人たちがそこにいる。
モノがあふれ、情報に事欠かず、識字率はほぼ100%の日本。豊かで文化的なはずの国で、言葉が人を切り刻む刃となっている。表現しようとするひたむきな言葉を圧殺し、言葉の暴力が連鎖され、心を蝕んでいく世界。
学校で、家庭で、はたまたネットを通じて、親しいはずの者たちが、口論の果てに殺しあっていく。なぜなのか。読み書き文法だけでは十分でない、人とコミュニケーションできる言葉の使い方を、知る者から、知らざる者へと伝えていく役割が、決定的に果たされていないのではないのか。
ある貧しい国に、音楽家を目指していた青年がいた。頑張ったが認められないまま、いつしか老人になってしまった。それでも彼は音楽をやめず、街角でハーモニカを吹いていた。1人の少年がその前でいつまでも聴いていた。ナイフを持ち、物凄い形相でこちらを見ながら。
だが老人は吹き続けた。曲が終わったところで、少年は言った。
「今から飲んだくれの親父を殺して、僕も死のうと思っていました。でも、あなたの音楽を聴いて、心が変わりました。」
「お若いの、これからハーモニカを教えてやろう。辛いときには音楽に心をぶつけなさい。」
音楽家と同じように、通訳・翻訳者が、持っている能力を活かすのは、金になる場面だけではない。よい通訳者・翻訳者であるために、コミュニケーションの大切な能力を培うことは、1回やって終わりの作業ではない。日々身近な人、遠くの人と、潤沢な人間関係を築いていくことが、通訳・翻訳能力の鍛錬の核だ。
スクールで学ぶ技術一辺倒では許されない。「使ってください、仕事ください」と走り回るだけが能ではない。通訳・翻訳を通じ、豊かに言葉を使おうとすることで、心も養われ、世界も変えていくような生き方になればいい。そんなあなたに必ず共感者は現れ、あとに続く者も出てくるだろう。
年収いくら稼いだかより、血の通った本物の仕事ができるかどうかが、人間たる通訳・翻訳者の真価だ。機械に一掃される私たちではないことを信じたい。1人1人の姿勢が、これからの業界の行方も決するだろう。
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