通訳者や翻訳者のことを「語学屋」だと勘違いしている人がいる。一部には「語学屋」と呼ばれて喜んでいる人もいるようだが、通訳者や翻訳者は「語学屋」じゃない。通訳者は「通訳者」だし、翻訳者は「翻訳者」だ。
どの分野でも一流になると、個人名がブランドになる。たとえば、「世界のオザワ」といえば指揮者の小澤征爾になる。音楽家は「作曲家」、「ピアノ奏者」、「指揮者」などと呼ばれることもあるが、けっして「音楽屋」、「演奏屋」とはいわない。まして、一流の音楽家や演奏者に「音楽屋」、「演奏屋」などという人は、まずいない。
一流の音楽家や演奏者を「音楽屋」、「演奏屋」などということができる人は、音楽にまったく興味のない人か、音楽のことをまったく知らない人のどちらかだ。音楽のことを知りながら「音楽屋」、「演奏屋」などというのであれば、それは傲慢な人間か、驕っている人間でしかない。
一流の通訳者や翻訳家のことを「語学屋」などと勘違いしている人は、異文化にまったく興味のない人か、異文化のことをまったく知らない人のどちらかだ。異文化のことを知りながら通訳者や翻訳家のことを、「語学屋」などというのであれば、それは傲慢な人間か、驕っている人間でしかない。
自分のことを「語学屋」だといっている人間は、通訳者でもなく、翻訳者でもなく、作家でもなく、技術者でもない。通訳者でもないのに通訳者のマネごとをやり、翻訳者でもないのに翻訳者のマネごとをやり、作家でもないのに作家のマネごとをやり、技術者でもないのに技術者のマネごとをやっている。だから、自分の職業に自信がない。
職業は、ひとりの人間がその全情熱をかけて追いかけるものだ。通訳者、翻訳者は職業であって「語学屋」じゃない。「語学屋」とは、要するに「なんでも屋」のことだ。通訳者でもなければ翻訳者でもない。自分の生き方に自信がない人間が「語学屋」などといって、自分自身をごまかしているにすぎない。
「語学屋」は通訳者でもないのに通訳者のマネごとをやり、翻訳者でもないのに翻訳者のマネごとをやり、作家でもないのに作家のマネごとをやり、技術者でもないのに技術者のマネごとをやっている。
自分を信じ、自分の足で立ち、自分の職業に「誇り」を持っている人間が、通訳者であり、翻訳者だ。たしかに「語学屋」は、通訳者のマネごとや、翻訳者のマネごとができる。だが、ホンモノじゃない。
通訳者は「通訳」することに、翻訳者は「翻訳」することに情熱と使命を持って生きている。一流ともなれば、「通訳」することに、「翻訳」することに、すべてを賭ける覚悟ができる。だから、一流の通訳者、翻訳家は人に感動を与えることができる。そこが「語学屋」と根本的にちがう。
言葉は生き物であって、道具じゃない。言葉を道具として扱うと、とんでもない大失敗や大損害につながる。重要な場面で言葉の使い方を間違えれば、転落と崩壊の道が待っている。一流の通訳者と翻訳家は、生きた言葉を操ることができる。しかし、「語学屋」には、それができない。
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