子供を産んだ。産院にいる間、小田実の『私と朝鮮』を読んだ。1977年生まれ、27歳の妹が、美しく着飾って見舞いに来た。しかし同じ年生まれのこの本は、表紙も中も見るからに老けていた。注文しても区立の図書館にはなく、都立図書館の書庫から、1ヶ月かけて届いた。死体安置所から、まさかの指名を受けて出番を迎えた選手のようだ。
昔の本を読むだけで、自分の知らない時代にタイムトリップできる。「社会主義」という言葉が生きていた時代。北朝鮮はこれから農業も工業も、伸びていく可能性が十分にある、と書かれている。まるで別世界のおとぎ話を読んでいるように感じた。
当時のニュースで毎日踊っていたであろう言葉達が、まさしく死語になった今、本の中ではゾンビのようにいきいきとよみがえり踊っている。おばあさんのみならず、27歳の若者でさえ、これだけの年月を1人で背負って生きているのだ。古い本が、過去を忘れる人間たちに、謙虚さを教えてくれる。
私たちはいつからどのように、「社会主義」という言葉への意識を変えていったのだろうか。時はなんとなく過ぎていく。1977年某月某日に、確かに生きていた人であっても、その時の意識に照準を合わせろというのは無理だ。人間は誰も今しか生きられない。本を読んでいても、どういう背景でいっているのか、全く分からない文章が多くあって、もどかしさを感じた。
では、今の「社会主義」はどういう言葉なのか。今でも社会主義を目指して2005年を生きている人もいる。1つの単語はなんと幅を持ったものだろうか。言葉は何回も死に、生まれ変わっていることを、今さらのように気づいた。改めて、古い書物を訳すことの難しさも実感せざるをえない。
本にはまた、このようなことも書かれている。道々に金日成さんの銅像ばかり置いてあるのはいかがなものか。プロパガンダのやりすぎもあまりうまくない。しかし、それだけで北朝鮮を、怪しい国とただ揶揄の対象にし、人々の暮らしや今後のゆくえに、本当の関心を持たない人たちが多すぎる、と。まさに21世紀に入った今でも、全く同じ日本人の意識の低さがある。
「韓国とは朴正煕さんのことではない。北朝鮮も金日成さんのことではない。一般人たちのことを考えなければならないし、そのためには自分で知ろうとしなければならない」ということも書いてあるが、27年たっても相変わらず教訓は活かされていない。
死語にならない言葉がある。後世の人間に、時を超えてうなずかせる言葉を贈ることもできる。病室のテレビを見た。今産んだ子供が駆け出し社会人になるころには、この情報はほとんど全部ゴミだ。まことしやかに知識人がしゃべっている言葉達が死語になり、私の全く知らない概念が世界を席巻するだろう。
私は子供に、後世に、何を伝えたくて言葉をつむぐのか。どんなにがんばっても、ゴミだらけのものしか作れない、だが、その中で不変の真実を、生き残る教訓を、どんな言葉で残すのか。自分の中の辞書をアップデートしていけるだろうか。流れてきた年月と、自分で作り上げた、ひとりよがりなボキャブラリーに、すでに傲慢になっていないだろうか。
これからだんだん年をとる。いつか子供の世代が書いた本を読み、新しい日本語にへぇ、と微笑める自分でありたい。「母ちゃんの頭は古いよ!」そんな罵声を浴びるのも楽しみだ。そして私の残した仕事の1つでも、「これはいいね」と若者に言ってもらえるなら、まさしく人生の本望だろう。
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