韓国・中国の映画・ドラマや文学を見聞きし、訳していると気づくことがある。女性の登場人物の生活。中国では毛沢東以降男女平等が進み、結婚後、出産後働くことは当たり前すぎて、日本のような悩みのテーマにもならない。韓国でも、貧しい女性は小さい店を経営したり、市場で雑貨を売り、男よりたくましく働く。
金持ちの女性やサラリーマンの妻達も全く暇ではない。不動産を転売したり、契(頼母子講)などをして財産を増やすのに懸命で、それに成功した女社長、実業家もよく出てくる。
つまり、女性が単なるお友達関係以上の経済的、実力競争的な何かで必ず社会とつながっている。「なーんにもできない、しない」おばさんたちは登場しないということだ。
中学時代、海外文通の好きだった私は、外国のペンパルに、当時流行の漫画「オバタリアン」の4コマ漫画を一部コピーし、訳して見せた。セリフは簡単だから間違っていなかったはずなのだが、通じなかった。
テレビを見てせんべいをかじり、バーゲンで買い物するだけの生活をし、人には偉そうにどなりちらす「オバタリアン」は、外国には存在しなかったのだ。フツーの日本人中学生の私は、どこの国でもおばさんはこうだと信じて疑っていなかったのだが。
日本は第二次大戦後、国家主導で性別役割分業の安定社会を作った。冷蔵庫を買い、洗濯機を買い、どれだけ余裕ができても、女は「なーんにもできない、しない」ままでよいと約束し、死ぬまで年金も与えた。そんなことができた。世界に例を見ない社会である。
外で男が死ぬほど働いていたって、家の中には「なーんにもできない、しない」女達がのうのうと暮らしている。それを見た子供たちが、どちらをうらやましく、身近に、当然に思って暮らすかは、火を見るより明らかだ。
普通の子供が普通に大人になっただけで、「若者がニートになった」わけではない。にわかに雇用対策などしても多分無駄だ。「なーんにもできない、しないでも楽に暮らしていける」例が、特殊な1人2人じゃなく社会にこれだけ幅を利かせていれば、誰だって遊んで暮らしたいと思うのは必然である。
こんなにラクな主婦の地位が保証された中で、働きたい女性が労働環境を改善したくても、大きな動きを作り出すことはできなかった。女性運動を女性がつぶすとまで言われた。アメリカのウーマンリブに続こうという動きもあったが、現地では反キリスト教運動・堕胎自由化など日本とは違う問題がたくさんあって、うまくリンクしなかった。
その一方で、中国・韓国の女性たちが、実力を磨き、しのぎを削って働く姿が、訳され、伝えられてこなかったのではないか。欧米だけに目を向け、アジアの隣国を軽視する姿勢でここまで来た、しっぺ返しを今食らっているのではないか。
北朝鮮を訪ねたとき、19歳の日本語通訳の女子大生が、みごとな日本語で通訳した。一方で日本人達が「岐阜県」「福岡県」などの出身地を言ってもどこだか分からない、日本地図も持っていないと言った。日本に来ることも身近に接することも全くなしで、これほどの実力をつけているのだと驚嘆した。
「よくそんなにがんばって勉強できるのね」と声をかけた。「ここでは、がんばるのは当たり前です。がんばらなければ……生きていけません!」と彼女は言った。社会主義を実現し、失敗したのはどっちの国なのだろうか。私は頭がくらくらしてきた。
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