はっきりいって、翻訳書をみていて面白くもなんともない。内容じゃなくて、商品としての面白さがぜんぜんない。ちゃんとした翻訳家が表舞台に出てこないから、ますます面白くない商品ばかりができあがってくる。
翻訳家の名前が話題になるのは、一部の読書家や出版関係者の間だけだし、そもそも翻訳家という人間が「どういう人たちなのか」というまともなイメージ像すら描くこともできない。
虚像だけが一人歩きをしているから、「あこがれ」や「あなたもなれる」式のキャッチコピーが大ウケし、一部の人間を虜にしてしまう。わるいことに、「あこがれ」や「あなたもなれる」式でその気になっている自称「翻訳家」ばかりが、仮設舞台に堂々と上がってくるものだから、虚像が実像のように見えてしまう。
最近、何かと話題になる女子プロゴルフ。ゴルフのことは何も知らないし、ゴルフなどやりたいとも思わないが、「藍だ、さくらだ」などと人物比較をいちいちワイドショーやニュース解説でやられると、まったく興味がなかった女子プロゴルフにも、目がとまる。
なにより、彼女たちの真剣な顔つきと目つきだ。さすがに、女子プロゴルフのトーナメント会場に行くつもりはないが、目の前で彼女たちの姿をみたら間違いなく「面白い」はずである。なぜか、それは本物の真剣勝負だからだ。
真剣勝負をやっている人間を傍から観察するものほど面白いものはない。その反対にあるのが、竹刀の勝負だ。竹刀だから、しょせん打ち所がわるくても青たんができるだけで、やる方もやられる方も、どこかで手を抜く。職業生命がかかっているわけじゃないから、適当なやっつけ仕事もできる。
ある意味、竹刀のルールで出来上がっているのが翻訳書という商品である。最近では、真剣をもった翻訳家が出てくることもあるが、真剣と竹刀では勝負にならない。だから、見ていて面白くない。真剣と竹刀で勝負すれば、真剣が勝つに決まっているからだ。
ところが、その真剣と竹刀の勝負だってめったに行われないのである。いってみれば、新訳と旧訳は「勝負の場」になるわけだが、旧訳を超えられない翻訳書や、そもそも勝負にならないような翻訳家を使って翻訳書をつくるものだから、一時的な話題になっても、すぐに忘れられてしまう。
おかしなことに旧訳の弱点を突いて、新しい価値、新しいものの見方をつくりだした翻訳家に、まともな評価がなされない。時代がどうのとか、世代が違うとかなとかいって、旧訳の翻訳家の言い訳を新訳の翻訳書にわざわざ掲載する無神経な出版社もあるから、驚くほかない。
新訳を出すということは、旧訳に対する「挑戦状」であって、旧訳の弱点を突き、新しい価値、新しいものの見方をつくりだすことのできない新訳など出版するに値しないのである。それこそ、資源の無駄であって、クズを増やすだけなのである。
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