翻訳出版における古典回帰の流れが加速してきた。半世紀ちかくにわたって古典回帰の流れを阻んできた「みせかけの権威」が崩壊し、いたるところから不満の声が噴出している。一部では爆発しているところすらある。
古典は名著だから古典になる。名著でなければ、古典としての地位を与えられず「時のふるい」にかけられて消える。だから、古典を1冊読めば万巻の書を読むことになる。とはいえ、古典を読む人間がエライわけじゃない、ただ超効率的な読書術を実践しているだけだ。翻訳家、仁平和夫は自らの翻訳作品にこう書き残している。
原点回帰の流れが大きな「うねり」を生み出し、古典回帰と合流して新たな段階に入ろうとしている。「誰のため医療なのか」、「誰のための年金制度なのか」、「誰のための政治なのか」、「誰のための安全なのか」、「誰のための教育なのか」、「誰のための憲法なのか」、「誰のための翻訳なのか」と。
不確実性が高まり、不安と恐怖に怯え、思考停止に陥っているのは一部の政治家や役人たちだけではない。敗戦60年をむかえ、何をしなければならないのかは、はっきりしている。人類の歴史、先人の英知から素直に学び、異文化・異文明の多様性を吸収して新たな文明社会を創造していくということだ。
そのためには日本人とは何か、日本文明とは何なのかが分からなければ何も進まない。ありとあらゆる局面で、日本社会をつくりかえる必要性が出ている。天皇制にはじまり憲法、教育、政治、経済など、すべてを新環境にあわせて再調整する時がきた。それも、いますぐにだ。
いつまで「戦後」や「終戦」という言葉を使い続けるのか。「戦後」や「終戦」という言葉を使い続けるから、先人たちの偉業、失敗の本質がみえなくなる。敗戦直後の混乱、貧困、屈辱から目をそらす「方便」は、60年間も使い続けたことで「ごまかし」に変わっている。
「戦後」や「終戦」という言葉は、実に便利な言葉だ。すべてを他人事にして片づけられる。大本営がわるい、職業軍人がわるい、政治家が無能だからわるい、欧米列強がわるい、時代がわるい、世界がわるいのだと。
ところが「敗戦後」という言葉を使えば、他人事ではすまされない。誰に敗れたのか、なぜ敗れたのか、敗れた原因はどこにあるのかを問われる。もちろん、敗戦の反対側には戦争に勝った勝戦国がいる。
「戦後」や「終戦」という言葉を使っているから、誰に敗れたのか、なぜ敗れたのか、敗れた原因はどこにあるのかという問いかけが出てこない。敗れた原因を徹底的に追求しないから、同じ過ちを何度も繰り返す。
日本はアメリカに敗れたのではない。日本は日本に敗れたのだ。人類の歴史、先人の英知から素直に学び、異文化・異文明の多様性を吸収して新たな文明社会を創造していく理念を忘れ、すべてを神話化し、みせかけの権威をつくり、傲慢になって内部から崩壊した。
「戦後」や「終戦」などといって60年も数えているのは馬鹿げている。勇気をもって「敗戦後」と言えばいい。真実から目を背けていても突破口は見つからない。ありのままの事実を受け入れ、そこから学ばなければ同じ過ちを繰り返すはめになる。
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