2007年3月23日に新訳『国富論』が出版されてから2ヵ月ちょい、思ったよ
り大きな話題になることもなく「静か」な状態が続いている。翻訳関係の個人ブログ
に「ネタ」としてあがってくる以外に、真正面から新訳の意味を取り上げ、掘り下げ
る人間はまだいない。
新訳『国富論』の存在がどういう意味を持っていて、これからどんなことが起こっ
てくるのか。新訳『国富論』の存在とはいったい何なのか、結論から書くとこうなる
「完全なる翻訳学問の終焉」を意味する存在だと。
要は「翻訳は翻訳、学問は学問として扱われる」ということにすぎない。あたりまえだといえば、あたりまえのことだ。すでに翻訳学問は機能不全に陥っていたし、ヘタな延命治療をやったところで「翻訳」と「学問」の完全分離は時間の問題でしかなかったのだから。
ただ、その完全分離を告げる転換がいつ起こるのか、そしてそれは何によって引き
起こされるのか、とういうことについては誰にもわからなかった。そう、一部の先見性ある人間以外には。
翻訳家の山岡洋一氏から『国富論』の新訳を考えていると聞かされたのは、二年以上も前のことだ。その時、山岡氏は「どんな形で出版できるのか、出版がいつになる
のか、正直なところメドが立っていない」といっていた。
ちょうど、長谷川宏のヘーゲル新訳が話題になっていた頃で古典新訳の動きはまだ散発的な動きでしかなかった。確かに小さな炎はついていたものの、その炎は弱々しく、すぐに立ち消えてもおかしくはなかったほどだ。
まさか、古典新訳を専門に扱う文庫ができるとは思ってもいなかったし、真っ先に大手出版社が参入してくるとも予想していなかった。せいぜい、自費出版か小さな出版社からはじまって中堅、大手という流れで飛び火し大きくなっていくのではないか、とその時は考えていた。
活字離れ、出版不況といわれるなかで大手出版社が古典新訳に活路を見出いそうと
したのは理解できる。もはや、教授様の肩書きに頼って商品を企画している場合ではない、そう悟ったのだろう。
翻訳家、山岡洋一の新訳『国富論』は「完全なる翻訳学問の終焉」を告げる存在であり、ただの翻訳本ではない。「翻訳」と「学問」の完全分離を告げる転換点であり
、「翻訳」と「学問」それぞれの「パラダイムシフト」を引き起こす存在なのだ。
「翻訳」と「学問」、その間を接合する接着剤は「出版」だった。「翻訳学問」は
「出版」なしに成立し得なかったし、「翻訳」と「学問」の間を接合するための「出版」の役割は、これで終わったのである。
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