最近、「あなたもなれる」式のキャッチコピーがハウツー本だけでなく、翻訳書の副題にもなっていることに気がついた。そこで「あなたもなれる」式が、なぜこれだけウケるのか考えてみたくなった。
言葉には目に見えない強力な支配力がある。語感を鍛え、語感を研ぎすましていくと、みえないはずの言葉の力がみえてくる。この「あなたもなれる」に組み込まれているものには、ある種のマインドコントロールとか洗脳とかいわれる効果を生み出すことができる力がある。
「あなたもなれる」の「も」がすごい、というか怖い。人の行動とその決定権を、本人以外の人間に操られてしまう現代版の呪文になっているからだ。この呪文にかかった人間は、いつの間にか「あなたもなれる」と発信している側の人間に操られ、心身ともに支配されてゆく。
「あなたならなれる」であれば、「なぜなれるのか」という問いが出てくる。ところが「あなたもなれる」ならいらない。適当な虚像をつくっておいて、その虚像をモデルに「あなたも」とやればいい。ひとり一人の適性、個性、特徴などすべて無視することができ、虚像は変幻自在に姿をかえながら呪文にかかった人間の頭の中で踊り続ける。
野球、音楽、芸術、相撲でもなんでもいいが、各分野の第一線で活躍している人物の声を注意深く拾ってゆくと、「あなたもなれる」という発想とはちょうど正反対の考え方をしていることに気がつく。
「あなたもなれる」の反対、つまり「自分ならやれる」と考えている。理由は、本人がよく知っている。いちいち他人に聞く必要などないし説明する必要もない。まして、他人の同意などいらない。精神的に独立していて、大事な心の領域に他人を入れない。
「あなたも音楽家になれる」、「あなたも政治家になれる」、「あなたもプロゴルファーになれる」などといって、その気になる成人はいない。なぜか、それは音楽家も政治家もプロゴルファーも、実像が広く知られているからだ。もっといえば、名前とか、顔とかがパッと出てくるから、虚像はつくられにくい。
逆に名前とか、顔とかがパッと出てこないような分野は虚像がつくられやすいということになる。将棋なら、羽生善治の顔が出てくるからダメだし、絵画も岡本太郎が出てくる。それじゃあ、翻訳家や通訳者ならどうか。
翻訳家と通訳者の違いすらわからない人が大勢いる。いや、圧倒的多数の人は関心がないから「どうだっていいこと」の範疇に入ってる。だから、翻訳家や通訳者の虚像はつくられやすい。
黒子主義、黒子思想が信奉され、それこそ普遍的な考え方であるかのように扱われているから、虚像をつくりたい側の人間にとっては都合がいい。虚像が踊る専用舞台もこしらえて、そこで虚像といっしょに人間も踊らせる。呪文が効かない人間には、悪趣味な踊りにしかみえないが、踊っている本人には虚像しかみえない。
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