翻訳書を売るんじゃない、翻訳家を売るんだ。自分のところで出している雑誌、新聞、自社ウェブサイトをフルに活用して翻訳家を売り込むんだ。翻訳書の表玄関に翻訳家の「顔」を刷り込むだけでは足りない。「訳者あとがき」などもうやめて、「翻訳家まえがき」にすべきだ。
「訳者あとがき」から多くの読者が読んでいるのを知っていて、なぜ商品の頭に「翻訳家まえがき」がこない。惰性で同じことを同じように繰り返し、いつまでも工夫のない商品とつくっているから、新しい読者がつかないんだ。
せっかく古典の新訳ラッシュがはじまったというのに、出版社と出版編集者は古典新訳書の「売り方」がわかっていない。なぜか、それは古典の新訳ラッシュが終わった後の新世界がみえていないからだ。ボヤッとでも新しい世界の輪郭がみえているなら、「死にかけの権威」にすがって古典の新訳など出すわけがない。
そうだ、「死にかけの権威」は日本文化という大きな文化形式に吸収され、その役割を終える。「死にかけの権威」と一緒に心中したいというなら、それもいいだろう。いままで、お世話になってきた「死にかけの権威」に最期の舞台を用意し、自らも日本文化の形式に吸収されたいというなら、とめやしない。
他社がやるから「わが社でも」などと浮き足立っているなら、アタマを冷やしてよく考えてみることだ。いまなら、まだ穴も深くない。いますぐ、掘り出したモノを穴に埋めなおせば、その穴の中で生き埋めにならずにすむ。他社が掘り下げた墓穴の深さをみて、びびることはない。線香でも用意して墓石がくるのを待っていればいい。
古典の新訳ラッシュで、読者の心をつかむことができる出版社は出版不況の「闇」から抜け出す。読者の心をつかめなかったところは、二度と戻ってこれない大穴に落ちる。古典の新訳ラッシュが終わったとき、圧倒的な翻訳ブランド力と資金力を獲得しているのは、読者の心をつかんだ翻訳家であり、その翻訳家と強固な信頼関係を築くことができた出版編集者、出版社になる。
多くの読者にとって翻訳家は、まだ「未知なる存在」だ。古典の新訳ラッシュは「未知なる者」がもっている「未知のパワー」を、どれだけ引き出せるかにかかっている。「未知なる者」は、一般的に恐怖の対象になることが多いが、情報操作すれば崇拝の対象にもなる。当然、翻訳家は崇拝の対象ではないし、恐怖の対象でもない。崇拝でも恐怖でもない、一人の独立した人間として存在しなければならない。
一部の読書家は、一人の人間として信頼できる翻訳家を持っている。高度情報社会の荒海を航海してゆくには、一流の翻訳家が必要だと考えているからだ。ニセ情報の大波に飲み込れないようにするため、目的地まで沈没することなく航海を続けるため、新情報の嵐がやってきても無事に切り抜けるルートを見つけるため、信頼できる翻訳家を持つ。
出版人には、目にみえない日本文明の歯車が130年ぶりに音を立てて動き出していることを体感してもらわねば困る。明治維新に匹敵するほどの大きな変化が日本で起こっているのだ、出版人が右往左往していてどうする。いままでうまくいっていたやり方は、どうせ通用しなくなる。
日本文明が飛躍できるか、それとも後退するかは翻訳にかかっている。5000年にわたり蓄積されてきた文明の英知と教訓を、どの時代の文明人よりも広く、深く、万民が活用できる文明社会に飛躍できるか、それが問われているのだ。一部の支配者と権力者に独占されてきた人類の英知を万民に解き放つことができるか、それとも支配者と権力者の「飾り物」のままにしておくのか、その答えは2006年に出る。
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