危機という言葉がよく使われるようになった。国家財政の危機、国民健康保険の危機、受信料制度の危機、人口減少の危機、石油枯渇の危機など。はっきりいって、危機はいつもあるのだ。いま、はじまったことじゃない。
これからも危機はなくならない。文明がはじまった時から危機はいつもある。危機に挑み、危機を乗り越えることができなければ文明は滅びる。危機がなくなったとき、それが本当の危機だ。
新旧の対決は命がけだ。もし、新訳と旧訳が馴れ合い、仲良くお互いを褒めあっているなら、それはイカサマだ。新訳は旧訳を否定し、旧訳は新訳を否定する。もし、新旧の対決で旧訳が残っているなら、それは新訳が旧訳を超えなかったという証拠だ。
ニセ新訳を出して既訳を売るというセコイ発想は、焼き直し、塗り直しをした既訳を売っているだけでクズを増やしているにすぎない。イカサマ対決で騒ぎ立て、数売って、印刷機を回すためなら、ニセ新訳でもトンデモ新訳でも何だっていい。そういう手口だ。
新旧の対決は命がけだ。真の新訳は、旧訳の「死」を意味している。真の新訳が出れば、もはや旧訳は必要ない。旧訳によって支えられ、つくりだされた権威、権力も崩れ去る。真の新訳は新たな「つくられた権威」を生み出し、旧訳を地下書庫に葬り去る。
だから、「翻訳出版の危機」などと騒ぎはじめる人間が、もうすぐ現れる。いやいや、もっとおおげさに「出版界の危機」などと言い出すことだろう。しかも、グロテスクな「死にかけの権威」をかさにきて。
だれにとっての危機なのか、それは読者の側の危機ではない。それは権威、権力をにぎっている側の危機、アカデミズムを支える権力構造の危機にほかならない。要は「死にかけの権威」とつるんでいる出版社、出版人の危機なのだ。
権威、権力をにぎってふんぞりかえっている人間の自己防衛など知ったことか。もはや、読者は「読ませる者」ではない。「死にかけの権威」とつるんでいる出版社、出版人にはみえていないのだ。読者が「毒者」に変わっていることを。
読者をバカにし、読者をコケにした行いが、読者を「毒者」に変えた。いくら「出版界の危機」などといっても、「毒者」には効かない。「死にかけの権威」とつるんでいる出版社、出版人に教えよう。トヨタ自動車が10年前に使っていた広告コピーは「セルシオのライバルはセルシオ」だ。
あれから10年、オヤジ車だったトヨタは洗練され、強くなって世界の巨人になった。そう、トヨタの敵はホンダでも日産でもなかった。トヨタの敵はトヨタだった。自動車を権威づけしたらどうなるか。権威づけされた自動車なんてバカバカしいと思うかもしれないが、実物が日本にあるのだ。それも皇室に。
1967年に日産が開発した「プリンスロイヤル」がそれだ。「プリンスロイヤル」は権威ある自動車であるがゆえにモデルチェンジできず、老朽化とメンテナンス部品の調達不能に陥った。すでに、トヨタの新型「センチュリーロイヤル」が後継御料車として決まっており、日産の「プリンスロイヤル」はその役割を終える。
トヨタの新型「センチュリーロイヤル」が日産の「プリンスロイヤル」を打ち破ったかのようにみえるが、そうじゃない。「プリンスロイヤル」は「プリンスロイヤル」に挑まなかった。「プリンスロイヤル」は「プリンスロイヤル」に敗れたのだ。
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