ある小説の翻訳をしていたときのことだ。やっと完成したものをまとめて他のファイルにコピーしようとしたら、突然、画面の文字がすべて消えてしまった。そばで見ていた夫が絶望した表情で、なぜバックアップをとらなかったかと机を叩いた。
しかし、私は知らずに笑顔になっていた。もう一度小説の世界に入っていけることが嬉しくて、ひとときの休みも取りたくなかった。疲れきった体、つりそうな両手でキーボードをたたき、背中と肩に激痛が走っていても、目の前には鮮やかな情景が浮かんだ。
新たにできていくものが、さっき消えたものより明らかによくなっていくのが、一行書き進めるごとに分かる。加速していく自動車のように、一度なぞった文章の流れは頭と心の奥底から噴き出す。
さっきの文章を亡霊のように支配していた、できそこないの逐語訳からの解放に、キャラクターたちが小躍りする。原語と日本語と映像と音が全て頭の中でミックスされる。私はこの作品の、読者なのか筆者なのか。どちらでもなく、どちらでもある。原語版の読者と、日本語版の読者の、両方のワクワク感を贅沢にひとりじめしている。
もしもあなたが、この世界にとどまるべきかを今、迷っているなら、そこにある会心の作を思い切って消してみてはどうか。失った文字と新たに生じる作業を「時給○○円の労働」に換算する自分がいるなら、給料のいい職場におとなしく移ったほうが幸せだろう。
文学翻訳の実力は、採算や効率と無縁のところにある。優秀な通訳・翻訳者と呼ばれるのが「稼げる人」「短時間に多くの情報を外国語変換できる人」ならば、文学翻訳者は、自らその王冠を捨て去り、書物とともに言葉の荒海を泳ぐ変わり者かもしれない。
「この喜びがあれば、どんな悪条件でもがんばれる」そう素直に思えたら、あなたも私も名翻訳者の卵。芸術と言葉と、物語のいきいきした登場人物たちが私たちの強力な味方だ。文学にとって大事なのは、書き手と読み手であり、売り手と買い手では断じてない。
このご時世、世間の耳目の最大公約数はホリエモンで韓国文学のすばらしさは週刊誌にも載らないが、インターネットなら、興味関心を軸に人がタダで集まれる。売れっ子作家と売れっ子翻訳者が、オーバーワークで共倒れしていく出版業界から一歩離れれば、フレッシュな野生の才能がそこここに転がっている。
もう待つのをやめて、発信しよう。言葉もメディアもツールに過ぎない。「震える感動」を永遠の共有財産にしよう。世界と時空を超える物語の語り部にみんなでなろう。
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