毎週日曜日、朝の10時から放送されるテレビ番組がある。サンプロで親しまれる「サンデープロジェクト」だ。サンプロは、日本の政治や経済の現状についてわかりやすく解説する人気テレビ番組で、財界や政界の大物、著名な評論家、政治学者、経済学者などが毎回出演している。
日曜日の朝といえば、サンプロで目を覚ます。そういう人も多いらしい。サンプロを録画しておいて、毎回みるわけじゃないが、だいたいみる。何となくみてしまう癖が習慣になって10年ちかい。10年ちかくサンプロをみていると、些細な違いにも目がいく。
6月20日に放送されたサンプロは「些細な違い」なんてもんじゃなかった。目が釘付けになった。内心「やったな」と、思った。6月20日のサンプロには、元米国国防次官補で現ハーバード大ケネディスクール院長のジョセフ・ナイが出演していた。
ジョセフ・ナイのような一流人物を出演させるのがサンプロのいいところだ。当然、ジョセフ・ナイは日本語がしゃべれない。だから、英日と日英の同時通訳者がつく。日曜日の人気番組というだけあって、同時通訳者も国内トップレベルの同時通訳者が登場する。
まさか、一流の海外ゲストを呼んでおいて、三流の通訳者を使うようなことはしない。いっていみれば、一流の原書を三流の翻訳書にするようなことはしないのだ。そんなことをやったら、視聴者から苦情の電話が殺到する。サンプロ側も、そのへんのことがよくわかっているから、トップレベルの同時通訳者を雇う。
いままでなら、モニター画面に映し出された海外ゲストと田原総一郎が一対一で議論していくところだ。画面の右下か右上に、同時通訳者の名前が「ちょろ」と出てくるだけで議論が進んでいく。
だが、今回はそうじゃなかった。驚くことに、ガラス張りの同時通訳者ブースがスタジオに設置されていた。そして、田原総一郎がじゃべるとき、ジョセフ・ナイがしゃべるとき、カメラが同時通訳者ブースに注目するという演出までついていた。
カメラの演出によって視聴者は、同時通訳者の存在を認識せざる得なかった。いままでのように、テレビ画面の右下か右上に同時通訳者の名前が「ちょろ」と出てくるだけでは、視聴者は同時通訳者の存在に気づかない。「黒子通訳者」なら、それでいいかもしれない。だが、同時通訳者は「黒子通訳者」じゃない。
6月20日のサンプロにはそういうメッセージが込められていた。テレビ番組の視聴者に対して、世間に対して同時通訳者の存在を認めさせるという、強い使命感を感じた。そういう使命感が、サンプロを動かし、視聴者に同時通訳者の存在を視覚的に訴えた。
通訳者というと、一般の人には馴染みがないように思われている。どこかのエライ学者さんたち、社長さんたちがお世話になっているのが通訳者だと思われている。けれど、通訳者は身近なところで活躍している。サンプロの同時通訳者だけじゃない。NHKのお昼番組「スタジオパーク」でも通訳者は活躍しているし、多くの衛星放送でも活躍してる。
身近なテレビ番組で通訳者が活躍しているのに、そろって「黒子通訳者」をやるものだから、一般の人は気づかなかった。最近は「通訳」という表示が出て、通訳者の名前が出るけれど、表示時間が短かすぎる。通訳者の名前を書きとめる時間すらない。パッと出て、パッと消える。これじゃ、苦情のいいようがないし、お気に入りの通訳者の名前を覚えることだってできやしない。
いままで通訳者は「黒子願望」が強すぎた。わざわざ「黒い服」を着て、無理して「黒子」を演じてきた。「黒子」という考え方は、いろいろある考え方の一つにすぎないのに、多くの通訳者が「黒子神話」を信じてきた。
「黒子通訳者」は、ホンモノの「黒子」を、目の前でみたことがない。だから、自分の頭の中で勝手につくりあげた「幻」を「黒子」だと思っている。日本舞踊の舞台公演などで、黒衣を着て登場するホンモノの「黒子」をみたことがないのに、「黒子」などといって、借り物の考え方で満足するから「黒子通訳者」になる。
「黒子」という考え方は、ある優れた通訳者が考え、悩み、苦しんで「黒子」という考え方に行き着いただけだ。尊敬すべき考え方ではあるが、すべての通訳者が「黒子」という考え方に行き着くわけじゃない。自分で考え、悩み、苦しむことをしない人は、とうてい一流にはなれない。
借り物の黒衣は脱ぎ捨てて、自分に合った衣を考え、悩み、苦しみながら創り出せばいいのに、それをしない。百人百様のあり方、考え方があっていいのにそれをしない。一流の人間に、借り物の考え方など必要ない。自分で自分の考え方を創り、情熱と使命をもって生きる人間だけが、一流になる。
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