節約すべきところを節約せず、節約してはならないところを削ると、大量の個人情報が流失したり、欠陥商品が人間を襲う。前代未聞の不祥事や大事件を引き起こした企業に共通するのは、節約してはならない費用を削ったという事実だ。
湯水のようにマスメディア広告に大金を注ぎ込んでおきながら、人材育成、安全管理、情報管理などといった信用問題に直結するところを軽視し、削った。本来なら、人材育成、安全管理、情報管理に大金を注ぎ込むべきところだが、そうはしなかった。
節約すべきところを節約せず、節約してはならない費用を削れば、その代償は何倍、何十倍、何百倍になって戻ってくる。「雪印」というブランドがどうなったか、「三菱自動車」というブランドがどうなっているか、それを思い出してみればいい。
ハッタリ、ごまかし、テクニックに溺れているから、徹底的に節約すべきところがどこで、節約してはならない大切なものが何なのかがわからなくなる。何十年もかけて大切に育ててきた企業イメージ、商品ブランド、信用力が、たった一日で崩れる。
一流企業といわれた大企業でさえもハッタリ、ごまかし、テクニックに溺れている。「つくられた権威」の象徴だった大学、出版社でさえもハッタリ、ごまかし、テクニックに溺れ、迷走している。
なぜなら、日本社会の根っこに傲慢ウィルスが感染しているからだ。傲慢病と闘うには、先人たちの知恵を借りるしかない。先人たちが目指したものを知り、先人たちがどのようにして傲慢病と闘ってきたのか、その歴史を知るしかない。
古典には、先人たちの英知が刻み込まれている。古典に新しい魂を吹き込み、現代社会に復活させれば、傲慢病の治療薬になる。傲慢病と闘うため、古典を復活させなければならない。だが、古典の復活に激しく抵抗している人間がいる。
一度手に入れた「つくられた権威」を堅く握りしめ、必死なって抵抗している。「つくられた権威」が権威として機能しなくなっているにもかかわらず、ハッタリ、ごまかし、テクニックを駆使して「みせかけの権威」をなんとかして「つくられた権威」に戻そうとしている。だが、それはうまくいかない。
日本文明は残酷だ。生き残るためなら何だってやる。日本文明は権威を再生産することで、激動する世界環境に適応し生き残ってきた。日本文明における大変革期とは、「みせかけの権威」が石ころや紙くず同然になり、新たな「つくられた権威」が誕生する時にほかならない。
新たな「つくられた権威」の多くが通訳、翻訳という営みから生まれる。新たな「つくられた権威」を創造し、新環境に適応して生き残りたいのなら通訳、翻訳という営みを軽視してはならない。もし通訳、翻訳という営みを「語学」などといって軽視すれば、その代償は何倍、何十倍、何百倍になって戻ってくる。
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